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旧制成蹊高等学校(きゅうせいせいけいこうとうがっこう)は、現在の成蹊大学および成蹊中学校・高等学校の前身の一つとなった私立の旧制七年制高等学校である。なお、新制の後身校については成蹊大学、成蹊中学校・高等学校を参照。 == 概要 == 明治末期〜大正期の教育者である中村春二が、三菱財閥総帥の岩崎小弥太、今村銀行(第一銀行と合併)頭取の今村繁三の協力を得て創設した私塾「成蹊園」が母体となっている。 旧制高校は官立が多いが、成蹊は全国でも4校しかない私立の7年制(尋常科4年+高等科3年)旧制高校である。 旧制成蹊高校当初の学級定員は1学級30名とし、尋常科は1学年1学級、高等科は文科・理科に分け1学年各1学級だった。 履修する第1外国語により、文科甲類(英語)・文科乙類(ドイツ語)・理科甲類(英語)・理科乙類(ドイツ語)と細分された。 当時は一度、尋常科に入学すれば帝国大学への進学が保証された。また、旧制高校の中でも成蹊は初等教育機関(小学校)を包含していたため、成蹊小学校への入学が帝国大学への進学に直結することとなり、人気を集めた。 旧制成蹊高校時代は、ほとんどの人が東京大学(東京帝国大学)へ進学した。 学制改革に際しては、高等科は新制成蹊大学へ、尋常科は新制成蹊中学・高校へそれぞれ移行したと考えるのが一般的である。 財政的には三菱合資会社(後に三菱本社)社長であり、成蹊学園初代理事長だった岩崎小弥太の存在が大きかった。高校開校にあたり、池袋から移転先として現在地の吉祥寺を岩崎小弥太が選定。岩崎小弥太は、吉祥寺に1万余坪の農園を所有しており、この農園に隣接した8万余坪の広大な土地を購入し、個人的に成蹊学園に寄附した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「成蹊高等学校 (旧制)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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